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2016年11月

2016年11月24日 (木)

Ich liebe dich, ich will dich mir zu glauben.

I love  you and I want you to blieve me をただ訳しただけ。

スタッフという、知る人ぞ知る、アメリカのフュージョン系スタジオミュージシャンが組んでいたユニットがあったのだが、6人のうち3人が鬼籍に入り、自然消滅したって感じ。

(キーボードのリチャード・ティーは、私の神である。youtube でググると、彼のうねるようなアコピが聴けるけれど、大学生の時に、ジャス=フュージョンの世界に足を踏み入れた私には、衝撃的な演奏だった。)

そのスタッフのリーダーでもある、ゴードン・エドワーズなるベーシストは、身長ゆうに2m超えてるんじゃないだろうか。ほとんど巨人であるが、その外見とは全く違う、繊細なる曲を書く。

基本、彼らはインストルメンタルだったが、数少ないアルバムの中に、数曲ボーカル入りがあって、本日のタイトルは「Love of mine」という曲の一節。

まぁ、何とベタなフレーズであることよ。

「こんなんは、日本語じゃ絶対に言えねーよ」・・・と、40年近く前に私に言った人は、お察しの通り今は主人であるのだけれど、邪なる心には、時に外国語は便利なものである。

違反報告が出るかも知れませんが、とりあえず、貼ってみます。


   

神の演奏も貼るか。





(因みにホールはどは違えど、両曲ともライブで聴いている。リチャード・ティーは六本木のピットインで目の前で聴いた。アドリブのみで演奏しているように見えるが、実は楽譜があり、そっとのぞいて見たら、コードがびっしりと書いてあったっけな。)

Just the Way You Are

月に一回ぐらい、主人と宴会に出かける。普段も演奏会の後に、まだ会社にいる主人と合流してファミレスに行ったり、ちょいと一杯などもしてるんであるが、誕生日であるとか、結婚記念日であるとか、年に数回しかない「二人とも休み」の日であるとか、普段と違うことをしたくなって、二人でのんびりまたり。

「二人とも休み」なら、ドライブもいいけれど、飲めない。いや、それはそれでいいけれど、せっかく美味しいものを食べても物足りないじゃん?(←酒飲みの屁理屈である。)

ま、それはともかくとして、とにかくリースナブルな宴会をして、なぜかカラオケに行く。若い頃はカラオケなんぞ大嫌いな主人だったはずだが、多分それは接待だの、会社の宴会だったからだろう。

なぜなら。

「こんなん歌ったら、みんなどん引きする。」世界なんである。

先日、大学の悪友とやはり宴会の後にカラオケに行ったのだが、一人が笑いながら言った。

「おい、今夜はあれか?英語しばり?」・・・はい、そういうメンバーでして。

であるからして、主人と私、二人で行っても横文字がほとんど。職場の人と行ってそんなことしたら、変人扱いだし、まずしらけますな。

本日は「いい夫婦の日」にかこつけて、お決まりのコースだったんですが、何となく歌詞を一生懸命に訳してる自分がいるのだった。70年代ロックの歌詞なんて、中学校出てれば意味はわかるわけね。ほんでもって、歌詞をちゃんと読まないで耳だけで覚えてる曲も多数あるので、改めて読んで驚いたりしてさ。

で。

そういうメンバーで行くと、私が必ず歌う曲がある。

ビリー・ジョエルの「素顔のままで」。原題は本日のタイトル。発表当時から大好きな曲で、歌詞はそらんじているし、意味もわかって歌っていたのだが、どうしたことか、本日は主人が一緒に歌ってくれて、ちょいとググッと来てしまい泣けた。

出会って38年。結婚して30年。色々あったけれど、主人はこの歌詞のままなんである。変わらない。

これからも仲良くしていこうっと。

(歌詞はこちら )。

2016年11月23日 (水)

都響 第817回 定期演奏会 Bシリーズ(11/19)

 

私だけの勝手な思いではあるが「いつも帰る場所」がある。

白井さんのヴァイオリン。某氏のチェロ。そして大野さんの音楽。

この3つは完璧無比なものではない。お三方いまだ発展途上と表現するのは、言葉の使い方いささか失礼ではあれど、もはやこれ以上のものはないと思いつつも、次なる機会では必ずまた新しき心地よさをいただける。そんなお三方でございまして、本当はランクなどつけたくはないけれど、でもやっぱり。

大野さんに勝るものなし。

指揮、大野和士氏、ヴァイオリン、庄司紗矢香氏。

「組曲『ペリアスとメザリンド』(フォーレ)」。出待ち仲間と終演後に話し、二人とも 2014年のアンコール を思い出していたことを知り、懐かしかった。上野星矢氏が乗っていたリヨンオケ。「シチリアーノ」の美しさは今でもはっきりと思い出せる。・・・ってことは、ヒジョーに申し訳ないけれど、この組曲は私にはまとまった感覚での感性を刺激させないんだな。

(・・・と失礼なことを書いて、その後ネットはあるが戯曲をしっかりと理解した上で、改めてこの4曲を思うと、今度は、なぜにこういう組曲を成したのか(場面選択であるとか)が気になってくるのだった。はい、聴くこちとらも、アラカン近くではありますが発展途上です。)

「ヴァイオリン協奏曲『夢の樹』(デュティユー)」。これ が強烈であったがために これ  を聴きに行き(ブラ2もあったしさ)、そこでいささか壁にぶつかってしまったのだが、本来ならそこでゲンオンを聴くほうにスイッチが入るはずなのだ。

(私のゲンオンの聴き方は、曲とは離れたところで、思索にふけるんである。音楽はその思索の回りで言霊のように飛び回り、それが快感なんだよぉ。)

しかし今宵は、庄司氏の音に魅了され、それが悪い方向に働いてしまったかも知れない。ごめんなさい、曲を理解できずに終わってしまった。

「交響曲『ペリアスとメザリンド』(シェーンベルク)」。交響詩は大野さんの十八番であるので、当たり前といえばそうなのだが、圧巻であった。都響の力まさにここにあり。シェーンベルクは「浄夜」しか聴いたことがないが(その代わりに色んな編成で聴いてるけどね)、最初に聴いたのが大野さん&都響で、目眩がするほどクラクラしたことを覚えている。

私の勝手な思いこみであるが、シェーンベルクという人は、「音楽」によって、人の心のなかにある「情念」のようなものを引きずり出すことができる人であったのではないか。いやそれは受け取る側の私の精神構造なのか。

しかし、この感覚は、ホールで聴かなければ感じえないものなのである。

時に響きのバランスが悪いとは言え、今のマイシートはベスト選択なんだろう。多分、そのまま継続だな。

2016年11月22日 (火)

旅するヴァイオリン vol.60 ~ バロックから古典へ ~(11/14)

旅するヴァイオリンも還暦を迎えました。皆勤賞ではないけれど、ほとんど聴きに来ている私にとって、もはやこのコンサートなしの生活は考えられません。これからも聴き続けていかなくてはと、改めて思う次第。

ヴァイオリン、白井篤氏、ピアノ、大須賀恵里氏。

「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番 ト短調(バッハ)」。バロックと言えばここから始めるのが当たり前(?)なれど、今だ聴くたびに「そうか、これが1番の曲なのか」・・・覚える気がないことも事実なのであるけれど、「対峙」するのは難しいんである。

「苦手」「嫌い」とは違うのだが、なぜか求めて聴くことがないのがバッハ。それ故に、いつ聴いてもまた違った思いになれるわけで、良し悪しあるだろうけれど。

「ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ 第2番(ヘンデル)」。通奏低音があるからでもないだろうが、ヘンデルのソナタになると、なぜか聴きやすくなり、家事のBGMに流しても軽やかな気持ちになれるのは不思議だ。

「ヴァイオリン・ソナタ (ルクレール)」。アンコールなどで聴いたことはあるが、全曲演奏を聴く機会はなかなかないだろう。弦楽器の演奏技術に関する知識は皆無なので、頓珍漢な感覚かも知れないのだが、緩やかに流れる雰囲気を持った曲だった。

「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ K.526(モーツァルト)」。はい、毎度おなじみの「そもそもはピアノが主役」時代からの過渡期にある曲でありますが、はっきり申しまして、ヴァイオリンは添え物に近い(失礼!)。

“ Moegen Sie Mozart ?”

などと聞く必要もないほどに、本当に楽しそうに演奏する大須賀さんの姿を眺めながら、ピアノの音だけを追っかけて行けば、それはモーツァルトのピアノソナタである。これが逆転・・・というか、対等かそれ以上になるにはベートーヴェンの出現を待たねばならないのだが、モーツァルトのソナタって、何て心地よいんだろう。

ピアノを習っていた頃、モーツァルトは苦手だったというか、お師匠様に「貴女はモーツァルトに向かない」と何度言われたことか。実際のところ、ハイドンやベートーヴェンのソナタの方が自分でも好きだったけどさ。

でも、それでも、比べるのも畏れ多いお方であっても、思うんである。

「あんなに楽しく演奏できたらどんなにいいだろう!」ってね。

2016年11月17日 (木)

サントリーホール30周年記念作曲委嘱  マーク=アンソニー・ターネジ:Hibiki (世界初演)(11/12)

指揮:大野和士

オルガン:鈴木優人 ∗
ソプラノ:ミヒャエラ・カウネ ∗∗
メゾソプラノ:藤村実穂子 ∗∗
東京少年少女合唱隊 ∗∗
東京都交響楽団

(敬称略)

大野さんの演奏会は、プレトークが多い。それを聞くために、必死に走ったり、飲まず食わずで働いたりするわけですが、そこまでする意義はある・・・私には。とは申せ、いつものことながら、話したいことがあまりにもたくさんある御方なのでして、終演後にお会いしたら

“Ich habe zu viel gesprochen.”

と笑いながら仰るのでした・・・ま、そうだったかも知れませんが、とても印象的だった内容があり、それを引用させてください。

今宵の委嘱は、タイトルが示すとおりのもので「誰に委嘱するか」は、大野さんがチョイスされた。たくさんの作曲家のリストから、一人、二人と、表現が悪いけれど消していく。そこには色々な与件があるけれど、大野さんが拘ったもの。

「現代の音楽には『ノイズ』を多用するものがたくさんあります。例えば紙を破ったり、弦楽器を弓で演奏せずに使用したり。私自身も、そういう曲は平素たくさん演奏しておりますし、それを疎うこともしませんが、今回の委嘱の趣旨を思うに(多分ホールが節目であることかな by クラウスの私見)、そういう曲は相応しくないだろうと。ですので、常に五線譜の音符で勝負するターネジ氏が最適と考えました。」

作品を理解することは、作曲家と対話すること。それが大野さんの音楽であり、それがこの拘りになるのだと、勝手に解釈して、改めて私はこの御方のファンになって良かったと思うのだった。
オルガンとオーケストラのための響(1986)〈サントリーホール落成記念委嘱作品〉∗)(芥川也寸志)。オルガンの迫力に圧倒されて終わったかも。プログラム解説も、初演時の芥川氏の原稿も読んでから聴いたのだが、それをふまえてなお、心を遠く30年前に馳せる。

このホールができるまでは、上野か人見が、響きのいいホールだと言われていたのだろう。(原宿は論外。)人見は聴衆として行ったことがないので、比較できないが、今、上野にはしげしげと通っている。大した耳ではないが、少しは響きがわかるようになって、30年前のオープニングコンサートで、ホールで聴いた聴衆は、どれほど感激したのだろう・・・なんてことを考えていた。

Hibiki(2016、世界初演)〈サントリーホール30周年記念委嘱作品〉 ∗∗(ターネジ)。曲としても完成度はとても高く、そして、演奏も素晴らしいものだったのだが、ここ  に曲の概要がある。政治的意味は全くなく、そして、ことさらに鎮魂を押しつけるような曲でもなかったのだが、児童合唱で言霊のようにリフレインされる Fukushima は奈落の底を見ているようで、かなり辛かった。

が。

私の心の中にあるものが、ほとんどの人の心にあるものと、相容れないとしても、私は私なりにすることをするだけだと決めたので、もうそれ以上は考えない。

いずれ、演奏会としては素晴らしいものであったのだから。

(サントリーホール RA1列1列14番)


2016年11月16日 (水)

N響Bプロ(10/8)

演奏会に行くときは、必ず予習をする。真っ新な状態で行くのも、それはそれで楽しい出会いもあるのだが、溜池山王で聴く場合は、マイシートがRBなので、指揮者がどのように音楽を捉え、そしてそれをオケがどのように具象化するかを感覚として体験できるので、曲を知っている方がより楽しいと思い、予習する。

その結果として

Es ist zu spaet !”

と地団駄を踏むことになった。いくらBプロとは言え、チケットゲット手だてはいくらでもある。そう、つまりは二日間とも聴きたいと思えど、仕事の関係で無理だったのだ。

指揮、デーヴィッド・ジンマン氏、クラリネット、マルティン・フレスト氏、ソプラノ、ヨアンナ・コショウスカ氏。

「クラリネット協奏曲(モーツァルト)」。ジャズ系奏者のように、動きが大きなソリストだった。演奏は軽やかで音も美しく、楽しいと思いながら聴いていたはずなのだが、予習が裏目に出たと言うか、後半へ向かって気持ちがどんどん高揚していったために、スルリと抜けた。

今これを書きながら思うけれど、プログラム構成ってどうなんだろう?それはどの定期でも言えることなんだけれど、まとまりがあるほうがいいのか、それとも前半と後半で全く違う感じがいいのか?わかんないわ。

「交響曲 第3番『悲劇のシンフォニー』(グレツキ)」。公演プログラム解説はこちら 。wikiによる解説はこちら

予習後に読んだこの解説は、文字通り「ぶっ飛んだ」私の感覚に、「答え」をくれるようなものだった。ホーリー・ミニマリズムとミニマリズムは、同じようで全く違うものなのだろうが、ミニマリズムを「不快な心地よさ」と捉える私の感性は、この曲から「不快感」を想起されず、ではそれが信仰心によるものかと言えば、そうではない。

弦を「横たわる何か」と位置づけるならば、その上に流れるソプラノが曲を支配するシャーマンなのか、いや、歌われている内容が違う。そして、一つの曲を形成していながら、歌い手と弦、そして管は、三つの異次元生命体のごとく、不可能な意思疎通を行っているとでもいうか。

私はこの曲に幻惑されたのだと思う。そしてもしかしたら、93年にこの曲をヒットチャートの6位に押し上げたイギリス人も同じだったのか?

また聴く機会があればと願う。もちろんホールで。

2016年11月15日 (火)

die Entschuldigung

「お詫び」・・・何かものものしい。もっと簡単な言葉はないのかな?あ、だからこそドイツ語なのか。

さすがにここまでためこむと、記憶も薄れてしまい、文章も怪しくなってくるので

「N響Bプロ(10/26)」と「N響@NHK音楽祭(10/31)」のブログはなしということで、お詫び申し上げます。
音楽祭はブラ2でしたのに、ホルン首席様は小金井にお出ましで、ちと残念でございましたということだけ、ご報告しますね。

2016年11月 4日 (金)

♪ 演奏会のお知らせ ♪

『旅するヴァイオリン vol.60』 ~ バロックから古典へ ~

2016年11月14日(月) 18:45 開場 19:00 開演

     於 横浜イギリス館

(みなとみらい線 元町・中華街駅下車 徒歩7分)

全席自由 一般 2000円 学生 1000円

ヴァイオリン:白井篤さん(NHK交響楽団)

ピアノ:大須賀恵里さん

~プログラム~

バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番 ト短調

ルクレール:ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ニ長調 作品9-3

モーツァルト:ピアノとヴァイオリンのためのソナタ イ長調 K.526

ヘンデル:ヴァイオリンソナタ 第2番 ト短調 

 

☆白井さんの楽しいトークを交えたサロンコンサート

 「旅するヴァイオリン」は還暦を迎えました(^.^)。

 この素敵なコンサートがいつまでも続きますように!


予約は不要です。直接会場までお越し下さいませ。

(白井さんのご許可をいただいて掲載しております。)

2016年11月 3日 (木)

白井篤 ヴァイオリン・リサイタル(10/18)

昨年まで10年間は浜離宮。新たな思いで今年からは王子ホールにて。私は2回目から聴いているけれど、このリサイタルを聴かねば秋にならず、そして、それこそ「思い出のアルバム」のごとく「あんなこと こんなこと あったでしょ」の10年間ですかね。

ヴァイオリン、白井篤氏、ピアノ、大須賀恵里氏。

「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第9番『クロイツェル』(ベートーヴェン)」。白井さんの演奏は毎月聴いているし、この曲も何回も聴いているのだが、何となく聴いてる私にしっくり来ない。私のフィジカルコンディションがあまりよくなかったこともあるのだが、今、これを書いていると、他にも外的コンディションが大きく左右していたのだと気づく。

空間の大きさ。客数による響きの違い。そして私の席。

マロワールドで、白井さんにとってはとても演奏しやすいホールなのだけれど、ソロリサイタルとしては初めてのホールなれば、私は初心に戻って最高のポジションで聴くべきだったのだ。

来年からは、それを心しておかねばばらないだろう。

「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第2番(イザイ)」。いきなり大曲で始まったので、この曲の前に休憩が入り、いくらか私の感覚も修正されて、いつものように、白井さんの演奏を楽しむことができるようになった。実を言えば、ヴァイオリンもチェロも、無伴奏はちと苦手なのだが、プレ・コンサートでレクチャーも受けていたので、各楽章のサブタイトルの意味など考えながら聴いてみたりした。

(「執念」「憂鬱」「亡霊の踊り」「復讐の女神たち」が各サブタイトル。)

「主題と変奏(メシアン)」。こなれた。そのひと言につきる。

「ヴァイオリンピアノのためのソナタ 第1番(サン=サーンス)」。「オルガンつき」を想起させるようなこのソナタは、全編にわたり見せ場のような曲で、息つく間もなく過ぎていき、そして最後の圧巻のユニゾンで締めくくられる。

表現としていかがなものかとは思うが、私が白井さんのファンとなったのは「音」であり、それは今も変わらない。であるからして、平素あまりヴィルトオーゾなるものを意識して聴いていない。自分が弦楽器を演奏できないこともあり、技術的なことをあれこれ言えないこともあるのだが。

それゆえ、高度なテクニックを要する(と思われる)曲を演奏されるとき、感じるのは「曲に対峙する心」であり、それに圧倒されるのだ。

来年の王子ホールでは、何を感じるのだろう。それまでまた1年、イギリス館に通う私なのである。


2016年11月 2日 (水)

都響 第816回 定期演奏会 Cシリーズ(10/15)

母校が箱根への出場権をかけて立川で走ったその日、私は有休をもらった。14時までに池袋に行けばよかったので、早退で構わなかったのだが、

“Jeder moechten Bezahlter Urlaub haben. ”

私のいる部ではそれが顕著すぎるし、しかも仕事の引き継ぎなど皆無であるからして、こちらもいい加減嫌になり、お休みなど頂戴したんです。

ということは、立川から池袋へということができたのだが、万が一のことを考えるとテレビで応援するのが妥当であろう。無事に予選通過したことを確かめて、お出かけいたしやした。

指揮、下野竜也氏、ヴィオラ、鈴木学氏。

「『ポーランド・レクイエム』より シャコンヌー(ペンデレツキ)」
「ア・ストリング・アラウンド・オータム(武満徹)」

ペンデレツキは、美しい曲だった。解説を読むと奏法など色々とあるようだが、そういうものと無縁の私には、曲そのものが何かを問いかけるような気がした。そして、いつも伝道師様が仰る「ヴィオラは人間の声に一番近い」、その言葉の具象化がそこにある。鈴木氏の音は、「声」だったかな・・・そして、曲想として内省的な音楽は、下野さんの十八番なんだろうなと思ったんである。心揺さぶられます。

さて武満。メモリアルイヤーであるので、いたしかたないのだが、今年は何度武満を聴かねばならないのだ。マーラーなら大曲ばかりだから、メモリアルだって、その演奏会をパスすりゃいいんだけど、武満は挟まれること多いからさ。そうやって一年過ぎた結果、

“ Ich mad Takemitsu nicht !”


何と罰当たりな女であろうか。でもそろそろ限界に近づいてきた。作品の素晴らしさは十分に理解できるのだが、カップリングされると、受け入れられない。かと言って、オンリーも勘弁でありまして・・・矯正必要?もういいよね?

「交響曲 第5番(チャイコフスキー)」。このブログを書いている現在は11月2日であり、明日、某オケが某所でチャイ5を演奏する。私は仕事で行けないのだが、乗り番の某御方に「チャイ5だから聴きに来るでしょ?」と言われて、泣き笑い状態なんである。

(おまけに、某首席はブラが降りなんだから、チャイ5は乗るかもしれないじゃないか。)

・・・しかし、後付ではあるが、明日のチャイ5が聴けなかったことを、(多分)補って余りあるほどのチャイ5だっただろうと思う。

チャイ5をアタッカで振る指揮者は多い。その意図はわからないが、下野氏もアタッカで振っていた。そして、私にどって「ここんとこ重要」なのは、やたら遅いとか、やたら速いとか、あまり彩をつけないで欲しいってことだ。

何もしなくても、見せ場たっぷりなんだから・・・密かなファン、西條さん、う゛んだば!

指揮棒を降ろし、次の瞬間に、西條さんをスタンディングさせたマエストロ、それはいつものことなんだけど、万雷の拍手でありました。

そして思う。都響の弦のかっこよさ。

さて、これでしばらく池袋には来ない・・・と思ったら、フルシャの第九があるのだった。

(東京芸術劇場 3階E列43番)

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